Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

Naval Tribe

(誰も待ってない気がするけど)お待たせしました。

頑張りました。


以前分からなかった所と間違いを修正しました。
兄弟姉妹については最低限しか記していません。


海軍系図  
参考文献は『海軍王国の誕生』(松野良寅/我妻榮記念館/1997)と『侍従武官日記』(四竃孝輔/芙蓉書房/1980)。
主として前者。

前者と後者で系図に違いがありまして。
前者は上から3段目忠直と4段目のやよ女が親子だけど、後者では兄弟になっている。
私ではちょっと分からんなあ…
山形県米沢出身の人々が主になっている系図で、前者は出版が地元米沢の記念館なのでこちらを採用。


『海軍王国の誕生』を読んでて驚いたのだけれど、山下源太郎と平田東助が親戚だった。
そして平田東助の甥が伊東忠太。
平安神宮、明治神宮、築地本願寺の設計をした建築家。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201489.jpg


山縣有朋の小田原の別荘・古稀庵の設計もしている。
古稀庵の建物は関東大震災後に茨城県矢板に移されてます。(上写真)

平田東助の妻が山縣有朋の姪なんだよね。
平田とはあまり仲がいい訳ではなかったみたいですが、そういう関係もあったのかしら…
(※平田はばりばり山縣派。このブログでも名前だけは既出。伊東巳代治3


あとよく分からなかった黒井悌次郎のラインが繋がりました。
こう見たら山本五十六、妻・礼子の親族からの広がりが半端ない^^;

妻の従兄弟の父が山下源太郎、その義兄弟に上泉徳弥、山中柴吉、四竃孝輔。
その四竃の義甥に山口多聞、奥宮正武。
妻の伯父の義兄が黒井悌次郎。

う~ん。
綺羅星の如き親族ですなあ…^^;

短いけど今日はここまで~
眠い! 
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名士

初めに訂正…

先日広瀬武夫の書簡に1か所だけ海軍の隠語が使われてるよ!
と書いたけど、もう2か所あるよ!とご指摘いただきました…orz
確 認 し ろ よ (自分で言う…)
ロシアから帰る時に「m(モテる)とf(振る)を実験する機会だと考えてる(笑)」って嫂に言ってたわー。
アリアズナちゃんからの書簡の広瀬訳に書かれている言葉(武夫ノNヲ御一覧)がインパクト大で全然気が回ってなかった…
でももしかしたらまだスルーしている海軍隠語があるかも^^;
…スルーって4・5回は通して読んでるんだけど…(節穴…)


***


以前上泉徳弥の伝記を読む機会がありました。
読むといっても他にも見たい伝記が複数あったので、見たい時代をピックアップしていくだけだったんだけど。
どういう時代に何をしていたかという話より同僚下僚の回想が面白くて、そればかり見てた…(あーあ)


上泉徳弥


上泉は私は名士だと思うんですわー。
海軍的な意味で。
色々と武勇伝がありますが軍艦の艦橋で葉巻に火をつけた伊藤博文(当時首相)を叱り飛ばしたり、傍若無人な薩摩出身の海軍さん(海軍大臣の息子)に腹を立て頭上に放尿したり。
日露戦争前は海相や軍令部長といったトップが考えている事が分からないので、開戦開戦と騒いで煙たがられたり。

結構エキセントリックで、ボタンを掛け違えるとかなりめんどくさい人だったと思うのだけれど、なぜか憎めない^^;
育ての親ともいえる義兄が故郷米沢で聖人と言われるような篤行の人物だったそうですが、なにがどうしてこうなったのか不思議な所ではある。



海軍兵学校12期です。
12期といえば今まであれこれと触れてきましたが、江頭安太郎、山屋他人、有馬良橘、林三子雄らがいたクラス。
私が15期の次に好きなクラスだ!(どうでもいい)

山屋他人が海兵入学前から上泉を知っていまして、当時の回顧をしています。(『謙譲の人 海軍大将山屋他人の足跡』 枝栄会/2005/非売品)
ふたりとも攻玉社に入っていた。
山屋曰く、


上泉君で思い出されることは「三ツ児の魂百まで」というが、同君は少年時代から頗る異彩を放っていた。


1)
上泉自室でランプを引っ繰り返し机一面油だらけ → 油気を抜くため火をつけて燃やす 
 → 近藤真琴(攻玉社社長)に見つかる → 停学 → 停学中、できたばかりの土手を図らずも滅茶苦茶に
 → 近藤仕返しかと思い激怒 → 退校処分の詮議 → 保証人のおかげで助かる

2)
大きな松竹梅の絵の入った白傘(※ダサい)を平気で使う
 → 破れたので、90センチの鍔広の麦わら帽子に絵を縫い付けて被る
 → 珍帽子(山屋の言)も破れ廃棄止む無し
 → 下宿先(千坂智次郎の叔父宅)の蔵にあった陣笠(家紋入り)を頂戴する


兎に角同君は豪傑肌の変り種であった。


陣笠ってお代官様が被っているようなアレよ…^^;
そら大分変ってると思うわ。
千坂智次郎は14期、同じく米沢出身です。

攻玉社時代は、上泉は運が悪いというか巡りが悪いというか、そんな感じだったようで、近藤真琴からはあまり良くない意味で目を付けられていた雰囲気^^;
山屋の談話はもうひとつあるけど、それは略。


この山屋の話は昭和11年8月のもので、近藤真琴伝編纂の為の談話。
山屋は編者にちゃんと上泉の許可と校閲を得なさいよ、と注意していたそうです。
上泉は

大分昔の事だし、細かい点は違う所もあるけど大筋は一緒。
近藤先生の伝記の中に名前が載るなんて光栄^^

という旨の返事をしています。
おおらかですな。


『上泉徳弥伝』、見ていると山本英輔の回想が結構面白かった。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/1b6c83c5e7ec8a6206b8b493f2b197c5.jpg
昭和5年の特別大演習観艦式 in 神戸。


山本英輔、山本権兵衛の甥ですが、艦隊派でしてね。
ロンドン海軍軍縮条約なんかにも反対していて、ぶっちゃけあまりいい印象はない訳です。
その一方で海軍で航空機に一番初めに目を付けて採用を上申したり、割と開けた人であったと思うんだ…
そんなこんなで自分の中でちょっと整合性が取れない人物でもあります。
ただ随分前に防衛研究所の史料閲覧室に行った際、調査官の方と(なぜか)山本英輔の話になり色んな話を聞かせてもらった。
結構印象変わった…(いい方に)


それはいいんですが、山本は上泉の下僚だったことが幾らかあったようです。
結構仲が良かったみたい。

上泉、大酒豪でした。
さ、酒癖はどうだったのか…^^;
毎日相当飲んでいたようで、山本は「大酒飲みの寿命は短いのに」的な事を回顧で言っていて、それは上泉は早じn(自重)

艦隊勤務の時も午前2時頃まで深酒をしているので
「早く寝なさい」
とか叱って酒宴を切り上げさせてたらしい。
部屋が開いていると思って覗いたら、酔っぱらってお腹丸出しで床に寝てたり。
子供か(笑)
上泉12期、山本24期なんですけどね!

自転車こいで艦に帰ってきたーと思って見てたら、そのまま直進して海に落ちたこともあったらしい。
ちょっとww

色んな意味で面白い伝記でした… 
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Here I am(5) 日露戦争直前集合写真


内容はサイトに移行しました
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海軍兵学校15期!(8) 海軍的華麗なる一族

*****

この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

*****


題(笑)

海軍兵学校15期、続き!

石川寿次郎


長兄が石川伍一、弟に石川漣平陸軍中将、甥に石川達三がいます。
石川達三、あの作家の石川達三です。
『生きてゐる兵隊』で国語の便覧に載ってますな。

作家か。
何か書き残していないかと自伝を読んだのだけれど、達三が生まれて間もなく石川寿次郎が亡くなっているので、全然面識はなかった。
達三の父が教師であちこち転勤していまして、その一時的な家として石川寿次郎の家に住んだという記述だけがありました。
その時にはすでに寿次郎は亡くなっており、空き家になっていたとのこと。(『私ひとりの私』)
石川寿次郎の没年は明治39年、公務中に乗り組んでいた厳島で亡くなっている。

兄弟の中で一番有名なのは恐らく石川伍一で、この人は日清戦争の前から清国で海軍の諜報活動をしていた。
戦争が始まると周囲から帰国を勧められたのだけれどそれを断り活動を続行、その内清国側に捕まりまして、銃殺されています。



あと面白いな~と思ったのは、平原文三郎という人物。
ハンモックナンバーは79!(笑)
分かっている段階では最終ランクが中佐、大正6年には南洋、オランダ領のとある島に移住しています。
中佐だったら、日露戦争終わってすぐ位に海軍辞めたのかな…

移住して何をしていたかと言うと、フルーツと天然ゴムの栽培をしていた。
農場経営をしていたんじゃないかと思う。
いやー…一体どういう経緯だったんでしょうね。笑
小杉辰三の方なら、まだ納得するんですけど、平原の場合は海軍と隔たり過ぎてる気が…^^;
ゴムだけならそうかなと思わん気もないけどフルーツて。


小杉辰三の兄が、北海道開拓に関わった後台湾に移住してるんですよ。
その後厦門に移り、そこから家族に「1・2週間程出かけてくる」と言ったきり帰ってこなかった。
東南アジアを転々として、最終的にはパプアニューギニアに住んでいたようです。
待てども帰ってこないので家族は日本に引き上げてしまった。
で、結局小杉兄が帰ってきたのがン十年後…。

南方興進の為に活動していたようで、その援助を募るための帰国だった。
その時に弟が財部彪や竹下勇と同期であった誼から力添えをしてもらって、古い軍艦を貰うという所まで話が発展したらしい。(昭和7・8年)
ただこの兄が帰国中に風邪に罹って亡くなってしまい、その話はなくなったようです。
当時の新聞にそういうことが載っていた。
これってもしかして平原と面識あったんじゃないの?と思う訳です…^^;



華麗なる?一族というか、華麗なる?親族。海軍編。

山中柴吉
 系図 
 これは以前このブログで触れたことがありますね。
山下友彦は山下源太郎の養嗣子です。書き忘れました。

黒井悌次郎と山下源太郎のラインがどう繋がるのかがよく分からないのよ…
あと、どういう繋がりかが分からないけれど、山本五十六の妻方の親戚に南雲忠一がいるとのこと。
山本五十六のお孫さんがネット上のインタビューで仰っていました。

ちなみに山下源太郎は海兵10期、広瀬武夫の兄広瀬勝比古の同期で、仲が良かったそうですん。
一緒に写ってる写真が手元にある。

(訂正:山口多聞と奥宮正武の妻は四竈の兄の子です)
(加筆修正版はこちら


岡田啓介、向井弥一

系図的に更に難易度が上がるのがこちら!
ごめんね!これ以上小さく作れなかったの! 

系図 

個人的には

 こんな感じ。


日露戦争の際中堅以上で有名な方の名前に色を付けました。
立見尚文、鈴木貫太郎、岡田啓介、佐藤鉄太郎、小笠原長生、東郷平八郎、向井弥一、正木義太が親戚である!

訳分からん。


『佐藤鉄太郎海軍中将伝』(石川泰志/原書房/2000)の系図を参考にしました。
多分合ってると思うのだけど、ここまで入り組んで来ると正直自信がない!^^;
どっ、努力は認めてよね!(笑)
というか、佐藤伝も2か所、ケアレスミスがあるんよ…

向井弥一が繋がるというのは、数日前にご子孫様から教えて頂いたホットな情報です。
流石に驚きました…
藤江兄弟の姉妹が、向井の後妻さんだそうで。

兄の藤江逸志は機関科の将校で、栗田富太郎の同期になります。



今のところはこんな感じかな~…
他には旅順閉塞に参加した人(実施部隊・掩護部隊)も複数いますし、唐津の町長になった人もいる。
日本海海戦時、信濃丸の副長で金鵄勲章をもらった人もいます。
公家じゃないかと思う人がいるのだけど、ちょっとよく分からなかったり。

あともうひとり、なにー!と思った人がいるのだけれど、その人の事はついでではなくきちんと書きたいので、また後日ということで。
個人的には竹田市に寄稿してもいいネタだと思う。笑


とりあえず海兵15期!はこれでおしまい!
もう少し書きたいこともあるけれど、そんなに掘り下げても…という感じかな、と思わんでもない(笑)
そういう感じなので、折を見ておいおい書いて行こうかと思います。
個人的にほっこりするような話も、広瀬が絡んでいる話も結構あるんだぜ…

また15期関連で何か情報があったら教えてください。ぜひ。
広瀬絡みならなお歓迎(笑)

ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました^^


秋山の連載からほぼ連日更新で疲れたわ~
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(17)岩手人脈

岩手・盛岡から野辺地尚義を頼って上京してきた少年、それが山屋他人でした。
上京時期の詳細は分からないようですが、どうも明治12(1879)年、13・4歳頃の事みたい。
同じく盛岡・南部藩の原敬も上京していますが、こちらは明治4年という随分早い段階です。
まあ原の方が丁度10歳年上になるので、そんなもんかと。

野辺地を頼ったのは、野辺地が山屋の叔父(母方)にあたるからで、上京後はそちらに身を寄せていたようです。
で、その野辺地から紹介された先が攻玉社になる。


山屋他人_野辺地尚義


攻玉社の創始者・近藤真琴は大村益次郎の鳩居堂で学んでいました。
野辺地とはこれまた兄弟弟子だったんですね。
ブルータスお前もかー(笑)

攻玉社入学の経緯については、「親戚に近藤先生の知り合いがおり、その口利きで攻玉社に入った」と山屋自身も回顧しています。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140331.jpg https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140324.jpg


東京都港区にある攻玉社跡。
元々慶応義塾があった場所ですが、慶応の移転に伴いその土地を譲ってもらって攻玉社ができた。
芝新銭座ですが、この辺り、江川塾があった所になります。

韮山代官の役所が韮山と江戸の2か所にあったということは以前触れました。
江戸屋敷は本所にあったのですが、江川英龍(この連載で触れた太郎左衛門)の息子の代に、幕府が新銭座に土地を与えています。
そこが江川塾の砲術練習場になった。
大山弥助(巌)なんかが江川塾の門人であった時代はここで教えを受けていた。
慶応義塾とはすぐ近くであったそうで、福沢はこの江川塾の土地を借りていたこともあります。


とまれ、近藤自身が海軍に文官として奉職し、しかもこの方海軍兵学校(の前身の前身)の立ち上げから関与しており、兵学校の教官を務めてもいました。
その近藤に感化されて海軍に入る学生が多くなり、更にその人々が攻玉社で教え、更にその感化を受けて学生が海軍に進もうとする、という一種のループであったみたい。
海軍の方でも近藤には諸々の信頼があったようで、割と攻玉社を大事にしていたようです。

海軍もその歴史の前半では攻玉社出身の士官が非常に多い。
『攻玉社百年史』によると、日清戦争に従軍した海軍将校の約3分の1強。
日露戦争では約5分の1が攻玉社出身になります。
明治維新前後生まれ、つまり広瀬武夫らの世代であると多くの人が攻玉社出身、即ち同世代の海軍士官なら殆どの人が海兵以前の顔見知りということになる。


山屋他人も例に漏れません。
山屋は12期生として卒業しますが、入学当初の人数20人中攻玉社出身者は実に15人。
12期には有名人が幾人かいまして、まずクラスヘッド(主席)の江頭安太郎、有馬良橘、林三子雄、あと上泉徳弥もこのクラスです。
この内江頭、林、上泉が攻玉社で、有馬は三田英学校の卒業生になる。

ちなみに江頭安太郎は大正の早い段階で亡くなるのですが、その10年程後に江頭の三男に山屋の五女が嫁いでいまして。
彼らのひ孫が皇太子妃雅子様になります。


紅葉館は支配人野辺地尚義が岩手・盛岡出身ということもあり、初めの頃は盛岡からきたお女中さんが多かったようです。
そんな感じなので、岩手県出身者も結構利用していたみたい。

原敬も仕事の関連で結構ここを訪れていたようです。
仕事のみならず母親の喜寿、米寿祝のパーティーを紅葉館で開催したり。
あと家が近かったことがあったみたいよー(笑)


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140331_02.jpg


日露戦争後は中老会という岩手の在京県人会が紅葉館で開かれるようになり、そのメンバーが鹿島組(鹿島建設)の鹿島精一であったり、田中館愛橘(物理学者)であったり。
山屋他人、栃内曽次郎、後には原敢二郎、米内光政、八角三郎といった人々が参加して、年2回程飲み会が開かれていたそうです。


米内光政_紅葉館


栃内、原、米内、八角、いずれも海軍軍人です。
近代史を見ていると岩手は人材が多いですね~。
総理大臣になったのは、原敬(盛岡)、斎藤実(水沢)、米内光政(盛岡)、あと岩手に入れていいのかどうか、東條英機。
東條は昔から微妙だそうです…
先の戦争に関係して色々事情があることもあるようですが、父は盛岡だけど東條自身は東京生まれ東京育ちなんだよねえ…


続く!
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