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つれづれ

歴史とは全然関係ない…

五代友厚展の帰りに梅田阪急のバレンタインの催事に行ったのですよ。
大変大変楽しかった…!
寧ろ目的はこっちで五代は大阪に行くからとついでにというオマケであった。


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ピエール・マルコリーニのソフトクリーム!
け、けっこう並んだわ…(平日の真昼間である…
ちょうおいしい。


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ソフトを食べた段階で結構満足して、そのまま帰ろうとしたのだけれど、到着時には売り切れていたベルアメールのチョコレート(上)が再入荷していた!やったー!
下はローエンシュタインのシャンパントリュフ。
美味しかったけどシャンパントリュフはクァウテモックのが一番好きだな。
昨年の雑誌の原稿料が入っていたので、ちょっと贅沢してやれという気持ちでした…
そして奥に見えているのは期間限定だったTポイントで買ったリンドール(笑)


IMG_3559.jpg


そして柴犬のブランケットも買ったった。やったった。
めっちゃかわいい。めっちゃかわいい。かわいい。(もうええっちゅうに
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五代友厚像・大坂西町奉行所跡

五代友厚、大阪市内に銅像が3体ありまして、ひとつは北浜の大阪取引所(旧大阪証券取引所。大証ですね)。
2つ目は光世証券、3つ目は大阪商工会議所前。
歩いて行ける距離に同一人物の銅像が3体というのは中々珍しいと思う。


五代友厚


こちらは大阪取引所前。すぐ近くに適塾があります。
ちなみにここからほど近い所にある日銀大阪支店に五代は屋敷を構えていました。


大阪商工会議所_五代友厚


こちらは商工会議所前。
手前が五代、中心が五代の娘婿でもある土居通夫。こちらも大阪の財界人・実業家。
通天閣の「通」は土居から取られています。
そして井上(馨のゲテモノ)料理の犠牲者?でもある。笑える(酷い
私の中では専らこっち。
 
光世証券の方は写真があると思っていたのだけど、なかったわ。
手が繋げる銅像。笑

五代は大阪取引所の前身である大阪株式取引所の創設発起人であり、大阪商工会議所の方では初代会頭であるのですね。銅像はそれで。


鹿児島_五代友厚像


こちらは鹿児島に行った時の写真。
鹿児島中央駅前にもあります。あちらは沢山の中のひとりだけど。


鹿児島_五代友厚誕生地


鹿児島の城山の近辺にあった五代友厚誕生地碑。

五代は明治18(1885)年東京築地で亡くなっていますが、お墓は大阪にある。
天王寺にある市設南霊園。


阿倍野


あべのハルカス25階からの風景。
画面中央に同じデザインのビル3棟が見えていますが、そのもうちょっと奥に霊園があります。

広瀬武夫の嫂春江の父・安井譲のお墓もこちらにあるのです。
安井の妻の兄の子供が加藤高明でして、春江女史とは従兄妹の間柄。
加藤を見出して上京させ、勉強の機会を与えたのも、「高明」への改名を勧めたのも安井夫妻で、加藤からすれば正しく恩人。
来阪した際、加藤は必ず安井の墓参に来たそうです。

そう言うこともあって、一度行ってみたいのだけれど中々機会がありませんな。
五代はともかく安井は探せない気がする。

***


大坂西町奉行所


大阪商工会議所の北側に石碑がいくつか認められました。
近付いてみる。
左側のふたつは戦後関係であったのでスルーします。
なので奥に見えている石碑ですね。


大坂西町奉行所


西町奉行所跡やった…

ここやったんか。
東町奉行所は大坂城のすぐ近くにあるのでぼちぼち見る機会もあるのですが、西町奉行所は初めて。


大阪城、東町奉行所跡


元々東西隣り合っていたものが、火事で西町の方が移転しています。
それが享保9年だそうで、と言うことはここで矢部定謙が執務していたのですね!
わーい!


大坂西町奉行所


解説を読めば初代大阪府庁もここに置かれていたそうです。
奉行所の建物がそのまま使われていたとのこと。
何でなくなったのかな。空襲か。
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「五代友厚」展@大阪企業家ミュージアム

五代友厚展


大阪企業家ミュージアムで開催中の「五代友厚」展に行ってきました。
五代友厚が特段好きな訳ではないのだけれど、大阪まちプロデュースのメルマガで特別展が開催されているとあったので。
ミュージアムのHPを見たら「明治の元勲たちの書簡を展示」とあったので俄然行く気になった。
井上馨の書簡とか出てないだろうか。(真の目的。笑)

こちらのミュージアムに行くのは初めてでした。
平日だったので小学生が見学に来ていたり、割とワイワイした雰囲気でしたが、常設展も結構楽しかったです。ミュージアムの人と話していたから余計だったと思うけれど。
しかし大阪発祥の有名企業の何と多いこと。
大阪は地盤沈下が叫ばれて久しいですが、現状は実に嘆かわしいですな。

「大阪の企業家精神」のルーツというオープニングムービーや江戸時代の古地図等も見ましたが、江戸時代の大坂は実に自主精神に富んだ町である…
大坂も江戸同様「水の都」で、川が市中を流れており、多数の橋が掛かっておりました。
150程あったそうですが、そのうち幕府が作ったのは12橋。
たった12橋!

多くの橋が商人の自腹で作られたことは知っていたけれど、公議橋がそれ程少ないとは思っていなかったので、これは驚いた(奉行所などの役所がある辺りや、与力・同心が住んでいた辺りに掛かっていた天満橋、天神橋などは公儀橋です)。
商人が作った橋では、淀屋の淀屋橋、美濃屋心斎の心斎橋などが特に有名。

堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場魚市場の魚市場の経営をしていたのが淀屋だったというのは初めて知ったわ。
大坂の3大市場を1軒の豪商が握っていたなんて驚きでした。
知らんこと沢山あるわー


五代友厚の誕生日が新暦の2月12日だそうで、それを記念して会期一杯の今週末18日(土)まで入館料が無料になっています。

小学生を避けて何気なく案内を見ていて驚いたのだけれど、五代友厚関係文書の所蔵元が大阪商工会議所やったわ…(ミュージアムの事業運営母体)
国会図書館のマイクロフィルムの原本、大阪にあったのですね。
案内の方と話していたのだけれど、五代の遺族から商工会議所に寄贈されたそうです。
五代は大阪商工会議所の初代会頭でもあるので、史料を集めているとも仰られていた。

今回展示されていたのは14点。
その内五代の手によるものが4点、内1点は西郷隆盛宛。
五代宛の書簡が6点。
宛先は、小松帯刀、大隈重信、大久保利通、渋沢栄一、福沢諭吉、岩倉具視。
ビッグネーム!

井上馨の名前は残念ながらなかったけれど、大久保利通の筆跡なんて関西では滅多に見る機会がないので、これは嬉しかったです。
ちなみに明治元年、2年の書簡が大半でした。

五代繋がりで商工会議所では色々とイベントを企画していたようです。
その内のひとつが「花外楼と明治の群像」。
話だけなら私も行きたかったのだけどな~お食事つきだったのだ。高いのだ…(笑


花外楼は大阪まちプロディースの山根さんにお誘い頂いて食事に行ったことがあるのです。
リニューアル前だけど。
花外楼なんて私みたいなのが行ける所じゃないぜ…


花外楼


花外楼は教科書にも載っている明治6年の大阪会議が開かれた料亭です。
初代が木戸孝允と交流があり、その関係から明治大正昭和の名だたる政治家や軍人がこちらを利用していた。
ちなみに上の花外楼の文字は木戸の筆跡。

10年ほど前、1日だけ揮毫や軸といった所蔵品が公開されたのですが、そらーもーすごかったです。
有名人しかいない。(花外楼に行ってきました
抑々の始まりが木戸だけあって、長州人が多かったように思います。


花外楼_大阪会議


そして花外楼の隣のビルに掛かっている大阪会議のレリーフ。
元の絵は山根さんと妹さんで描いたと言ってはりました。笑

山根さんからは初めサイトの「源氏の里」(源氏のルーツは関西、河内源氏の本拠地は羽曳野と言う話)が切欠で、ご連絡頂いたのですね。懐かしや。
サイト内にある大阪に関係する文章や花外楼訪問記も読んで下さったようで、それで花外楼でイベントがあるけどどう?と声をかけて頂いた。
そういうこともあり花外楼の資料についていくらか話を伺ったりもしたのですが、悪い話ではないのだけれど、あまり書かない方がいいかなあ。

あと空堀にチョコレート専門店エクチュアを呼びこんでくれたのも山根さんですよ!
私はご本人にお会いした時お礼を言いましたよ!(笑)
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品川神社(2) 板垣退助墓所

品川神社


品川神社続き。
何気なく見ていたら社号標を記したのが清浦奎吾だった。
さりげなくビッグネームがあちらこちらに散っていますねえ。

前回の写真の方が分かりやすいですが、鳥居が面白かったです。
こういうのは見たことないなあ…登り竜と降り龍。

そして境内の奥にある本殿…


品川神社 


の更に奥にあったのが板垣退助の墓所(神社の裏)。
分かり辛い。
紙がぺーんと張ってあるだけで特に看板等もなく…


品川神社 


こ、これは見逃すわ~^^;


品川神社_板垣退助 


奥へ進むことしばし。とある区画に幾つかの墓石が並んでいました。
上に見えている写真の奥が板垣の墓所。


品川神社_板垣退助 


右側の方ですね。
奥に見えているのは板垣の妻のお墓。


品川神社_板垣退助


ちょっと調べてみたのですが、板垣はこちらにあった東海寺の塔頭高源院に葬られたそうです。
高源院は移転したものの、板垣家の墓所はこちらに残ったそうで。


品川神社_板垣退助


「板垣死すとも自由は死せず」の石碑も。筆跡は佐藤栄作。


板垣退助


板垣死すとも…は遭難した時に側にいた人がそういう意味の言葉を叫んだらしいのですが、ただ正確な所は分からないらしい。
当時の様子を見ていた密偵の報告に似たような言葉もあるようだし。
ただ板垣本人は岐阜事件での遭難については、あっという間の出来事で言葉が出なかったと言い残している。

岐阜事件が起きたのは明治15(1882)年。
板垣は長生きでして、亡くなったのは大正8(1919)年になります。
その間に「隈板内閣」で知られる政党内閣も大隈重信と共に立ち上げています(明治31(1898)年)。
なんだ、ここで死ななかったのかと初めて知った時私は思ったよ…
(思わず「死んでればドラマだったのに」と言い放ち爆笑された)

国文学者伊藤正雄が明治40年代に相撲を見に行った時、板垣退助を見たそうで、その時の印象が「この人まだ生きとったんか」
という感じ。笑
隈板内閣倒壊後、板垣は政界を引退していたので余計だったでしょう。
当時「自由死すとも板垣死せず」とか言われていたそうで、悪いと思いつつこれを見た時は爆笑した。

板垣、個人としては非常に美点・美徳の多い立派な人物(戦前の政治家はそういう人物が多い)。
でも政治家向きじゃねえなあ…
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品川神社(1)

先週末は東京でした。
宿泊が品川で、早朝に少し時間が取れそうだったので周辺に史跡がないか探した(ヒジハラですから。笑)
…ら、板垣退助のお墓があった。
何となく青山霊園とか多磨霊園とか、あの辺りかと思っていたので意外でした。

ということで取り敢えず品川神社まで。


品川神社


京浜急行新馬場駅の目の前。
電車の中から結構大きい神社だなあとぼんやり見ていたのですが、よく見りゃ


品川神社


<●><●> 富士塚じゃね? (覚醒)(笑


正直板垣退助の墓所よりこちらに興奮した。(どうなの…

階段を登ればちゃんと富士塚の説明がありました。
一度見てみたかったので、これは嬉しかったぞ!

富士塚とは江戸時代の人工富士山のことで、富士の山開きの時に富士講で富士登山するのですが(なんのこっちゃ)、それに行けない人々が富士塚に登った。(※品川富士は明治2年に作られています)
富士信仰は関西でも昔からあるらしいのですが、富士塚はないのです。
それやこれやでいっぺん見てみたかったのだけれど、思いの外大きくて驚きました。


富士山


帰りの新幹線から見えた富士山。
東京出てから20分くらいで見えるもんなあ。
江戸から富士山は見えていました。
見えなくなったのは高層ビルが立ち並ぶようになったこの数十年だと思う。
とういうか数年前まで山手線から見えとったはず。
まあ、日常生活している上でどう頑張っても欠片すら見えない関西と関東では、富士山に対する感じ方はちょっと違うと思うんだ…
(※三重・滋賀・奈良・和歌山の県境辺りの山頂が可視の最西らしい)


品川神社


鳥居の近くに大きな石碑があったので近づいてみる。
荏原郡長を務めた林交周という人物の顕彰碑でした。


品川神社


篆額が小松宮彰仁親王、撰書が伊藤博文。
リリー自分で書いたんか。所縁の深い人物だったのかな。

階段を上ると包丁塚等あれこれ石碑が並んでいたのですが、ゆっくり見る時間はなかったのでスルー。
富士登山(笑)する時間もちょっとなかった…
踵のあるヒールだったのでしんどかったのもある。笑


品川神社



本殿の前に忠魂碑があったのでまたもや近づいてみたら、


品川神社


「希典書」とある。
あら。


品川神社


明治43年4月に品川町の在郷軍人会が日清日露戦争の戦没者の慰霊の為に作ったもので、乃木希典に揮毫を依頼したそうです。
何度か移転の後に品川神社にやってきたとのこと。

結構色々なものがありますな。

続きます。


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