Para Bellum

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徒然

ふざーいごめーん!
上村さま中々終わらん…!
ブログと両方するのは無理だし、あれこれ読んでいる内に寝落ちしちまうんだよ!(笑
しかし流石に仕事中にうっかり上村さまの妄想するのはどうかと思う…病膏肓に入るとはこの事か…orz

うーん、しかし上村さま本当にどんな人だったんだろうと思うわあ。
一度お会いしたい…
それがだめならせめてひと目遠くから眺めるだけでも(何があった)(広瀬はどうした

そういや上村が回想で辺見君のことを「十郎太さん」って言ってて、十郎太さんやって!十郎太さんやって!と一人で興奮してたんやけど(落ち着け)、よく考えたら同い年やったわー。
日露戦争辺りで活躍していた将軍でも、西南戦争で亡くなった人々の後輩のような感じがするのだよ…
辺見君が大分若いということがあるのだけど、なんとなく忘れてしまう^^;

そして今回はこのショットをお送りいたします(感想入り)。
誰でしょう。笑

20170521.jpg


皆様よくご存知の方の若き日でございます。
いずれ名前入りで出しますので、それまでお待ちを。うふふ
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つれづれ

2017514


皇国の興廃なうって見えて思わず笑ったんだけどよく見たら皇国の興廃を担うだった加藤友三郎の伝記小説。


東郷吉太郎が蔚山沖海戦の批判じみたことを上村彦之丞に面と向かって言って(何たるつわもの)めっちゃ怒鳴られた話があるのだけれど、それをどこで見たのかがどうしても思い出せんのだー
今書いてる事に関係あるかと言ったら別にないのだけど(ないんか)、気になって気になってしょうがない。探しても探しても出てこない。
誰か分かる人おる…? (´;ω;`)


しかし久しぶりにあれこれ見るものが多くて楽しいです。
忘れている事が大変多いのが我ながら残念過ぎる。笑
あー…ごんべさん好きやわー…(上村どうした
改めて伝記類を読んでいてふと思ったのだけれど山本権兵衛ってとても几帳面な人なのだけど、几帳面というより一種の潔癖症やったんと違うかな。
剃刀か鉈かでいうと鉈の方だと思うのだけれど、両刃で鉈と剃刀ではという感じがする。
分かりにくい例えだな。


昨日天満の古書店を覗いたら『残花一輪』を見つけて驚いた。
熱血秘史のシリーズではない元の本。おー…
『残花一輪』と書いてすぐ分かるのはMVさんおひとりのような気がしますが、「海軍の本より~『追悼山本五十六』と『残花一輪』より」で触れています。
著者は山本五十六の1期先輩にあたる人物です。
500円と安かったし写真版もあったので買おうかどうしようか迷ったのだけれど、あっても読まないだろうなあと。
というか本を買う前に積読を消化しろという話ですわ…
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サイト更新(近代*2)

サイト更新 2件

近代:ふりさけ見れば春日なる
近代:追い手に帆かけて

前者は戦艦三笠の話です。
話と言うか、これぞつれづれという感じですが、ブログに掲載した時よりは写真と文が少々増えております。
ピシッとしてかっこいい向井弥一と艤装中の三笠を遠目からご覧下さい。笑。
向井、私あなたの事をもっと知りたいわ…(広瀬はどうした
後者は海軍の流し樽の話になります。

お時間がありましたらどうぞお立ち寄りくださいませ。


奈良国立博物館で開催中の快慶展に行ってきました。
ひたすら仏像でしたが、楽しかった~
東大寺の復興に尽くした重源上人座像の実物を初めて見ましたが、印象的だったなあ。
というか、快慶作だったのね…
見応えのある展覧会でした。
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準備中

20170511

机の周りが荒れて参りました。

山本信次郎の話の途中ですが違う山本の方が終わりません。
信次郎さんの話は続きはWebでならぬ続きはサイトで、になりそう。
ヘンな所で切れてすいません。

同時進行で書いていた、昨年書いた上村彦之丞の話にちょっと、ちょっと手直しを加える積りがちょっとで終わらんくなってきた。
摘み食いしすぎて何から得た情報か今では判然としないものが多く、書く時間よりも確認に時間がかかるってどういうことなのw

ご無沙汰にし過ぎるのもどうかと思うので、週末にサイトの方はブログ再録分になりますが更新するつもりでいます。
最近ブログ再録の方も、そのまま載せるというものが多くて申し訳ない気もするのですが、手を抜いているわけではなく、結構調べてから書いているので附け加えることが特になく、そのまま再掲にならざるを得ないのです(という言い訳)。
アジ歴の資料とかは本当ならサイト掲載時に出したらいいと思うのですけどねえ。
その時に調べたことはその時に書いてしまう(忘れるんです

うん、まあそう言うこともあって上村の話は上村と山本権兵衛の話となって結構な改定が加わった状態での掲載になると思います。
いつになるか分からんけど。
書くからにはそこそこのレベルまで持ち上げたいので、気長にお待ち頂ければ~
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ダイバーシティ(4)

日露開戦後、山本は仮想水雷母艦日光丸の水雷長兼分隊長でした。
何をしていたかと言うと、駆逐艦や水雷艦隊への魚雷等の供給、機雷の組立と補給という後方支援。
当時の機雷組立は危険な作業で、原因不明の爆発で殉職する人も少なくなかったそうです。

そんな機雷を沈置する将兵はしばしば戦功を立てるのですが、組立てる方はその功を認められることもないわけで。
無いと困るのに、表には出てこない作業は認められにくい…

山本の部下の兵たちは、自分たちが苦労して作った機雷で戦友たちが功名を上げていく状況に耐えられなくなってきて、
「自分たちも機雷沈置の選抜に加えるよう、上長にとりなして欲しい」
そう嘆願してきた。

そしてその願いを一蹴する程山本は冷淡にはなれなかった…
命懸けで機雷を作る部下たちを見ている人なので、何とかしてやりたいと思うのが人情だろう。
これ明治37年5月頃の話だと思われます。


山本は艦長経由で東郷平八郎連合艦隊司令長官に願い出ます。
そうしたら秋山から
「艦載水雷艇隊を率いて旅順港口に機雷沈置に行かないか」
と声を懸けられ、山本はこの話を承けた。
ただ嘆願してきた部下たちと共に、とはいかなかったようですが。


艦載水雷艇 


旅順口封鎖に従事していた艦隊が当時持っていた艦載水雷艇は8隻であったけれど、1隻は東郷司令長官用として必要で、実動可能なのは7隻。
その内1隻は6月初旬の機雷沈置の際に喪失しており、山本に話が下りて来た時には6隻だったとあります。


調べてみたらアジ歴に指揮官の報告書がでており、作戦の実施は明治37年6月7日、指揮官は田中茂蔵少佐(37年6月7日第1回艦載水雷沈置戦闘詳報)。
10期ほど上と山本が書いていたので、15・6期ね!知ってる人かも!と思ったのだけれど知らん人やった…(ごめん…)
16期、井出謙治クラスの人。

しかし報告書にある艇隊の編制を見ると8隻になってるよ…
ん?
三笠の戦時日誌を見ても8隻とあったので、こちらが正しいですな。
(浅間、八雲、三笠、朝日、敷島、富士、八島*2)

報告書によると機雷投下中に敵の砲火を浴びせられたけれど、特に損害は出さずに済んだ。
その帰還時に曳航してくれていた駆逐艦白雲の転舵が原因で八雲の艦載水雷艇が沈んでいる。


艦載水雷艇 


これだけ小さいと曳航する船の速力や方向転換に大きな影響を受けただろう。
というかこんなのでよく敵陣近くまで行けるな…こわいわー
報告書からは分かり辛かったのだけれど、山本の回顧を見ると、猛烈な砲火により作業途中で退却した、というのが実際の所のよう(実施責任者の書いた報告書なので中々そんな感じでは書かれないと思われ^^;)。


とまれ、先にこうした失敗があり、加えて先の指揮官より遥かに経験不足の山本では無理だろう。
そう考えた島村速雄参謀長は山本へは4隻の艦載水雷艇を任せるよう秋山に告げたそうですが、


処がどういう訳か、(※土原註:秋山)参謀は私の為にいやに頑張られて、終に最初の意見を通され、私は六隻全部をお預かりする事となった。
私は責任のいよいよ重大且大なるを覚えた。


秋山の主張で6隻を預かることに。
そらー男としては期待に応えたい所ですな。
あれこれ考え幾らかの実験をした後、6月13日に6隻を率いて旅順港口へ機雷沈置に向かっております。
これもアジ歴に山本本人の報告書が残っていました(37年6月13日旅順口外機械水雷沈地の行動に関する報告)。
そしてこちらは機雷沈置に成功した。
(あっさり…


山本は明治33・4年の常備艦隊附から始まって、明治37年の旅順港口での作戦、38年のネボガトフ、ロジェストウェンスキーの通訳と秋山と縁があり、分かる所ではここでおしまいかと思いきや、まだあった。

秋山が大正5(1916)年3月~10月末に欧米視察に出掛けた事は何度か触れていますが、その際立寄った国にイタリアがあります。
当時島田繁太郎がイタリアに駐在しておりまして、その際の軍務局長が秋山でした。
その赴任の際に島田は

「イタリア語を覚えても仕方ないだろうから、フランス語でも学んでこい」

そう秋山より言われたと回顧しています。
田中宏巳『秋山真之』にも以下のような記述があります。


七月下旬、イタリアに入った。
山本信次郎中佐と嶋田繁太郎少佐が出迎えた。
山本はフランス語とイタリア語を自在に操る語学の達人で、その上、熱心なカトリック教徒で、イタリア人の高い人望を得ていた。


続くのだけど、このままブログで続けるかちょっと迷ってる…
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